光が、新芽を輝かしています。陽気がみちてきて心までも晴れ晴れと華やいできます。よくぞ、四季ある国、花愛でる国に生まれてきたものだと、この自然に感謝する気持ちが湧いてきます。古来から、私たち日本人は、花に特別な想いを寄せてきました。とくに梅や桜には霊性があるものと尊んできました。
「花」といった場合、いまでは「桜」のことを指しますが、万葉の時代には、“万物に先駆けて花開く”ことから梅を指していたようです。実際に万葉集で詠まれている花は、桜よりも梅のほうが多く頻出しています。時を経て、やがて桜は、私たちの精神を象徴する美しいシンボルにまでなってきます。
古今集のあまりにも有名な歌、「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」の花も桜。また、俳句の歳時記に記された季語を見ても、花衣(はなごろも)、花人(はなびと)、花冷(はなびえ)、花影(はなかげ)など「花」を冠した様々な言葉が、あでやかに咲く桜花の様をいいあらわしています。たとえば、「花の雲」というとき、それは薄紅の爛漫と咲きそろった桜花が、まるで雲のように影をあつめている景色を表現しているのです。なんと華麗で、美しい日本語なのでしょう。
私たちはまた、それが決まりきった行事でもなんでもなく、花の下に誘われて、花見にでかけます。気配に惹かれるとでもいいましょうか、華やいだ場に無意識に連れていかれていることになんの不思議も感じることがありません。 |
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その昔、桜は、精気を発散する植物として、その薬効が語られてきました。桜の花と皮に含まれるエフェドリン系の物質は、咳止めの効果があるといわれています。咳は、精気を吐き出してしまうと考えられていて、それを抑えることで、幸を体内にとどめると信じられてきました。たとえば、結婚式に桜湯を飲むという風習もこんな縁起から伝わったものなのでしょう。
異国では、たとえば西洋ではバラを、中国ではボタンの花を愛でる風習がありますがこれらはみな、花を眼下に見て楽しみます。私たちは、梅や桜を見上げ、花の下へ、花の中に入って、全身で、花粉とともに花そのものの精気を浴びます。そしてなにより、それをひとりで愛でるのではなく、宴を開き、座に集って、開花の華やぎをともに、歓び祝います。酒も馳走も歌声までも、うららかな輝きを見せます。
季節の中の幸と恵みを心から享受する。美しい、季(とき)の時をぜひご堪能ください。 |

萩原健次郎(はぎわら けんじろう)
1952年大阪生まれ。詩人。詩集に「絵桜」「求愛」などがある。共著に「私を泣かせた一本の映画」、ビデオ脚本として「ジス・イズ狂言」がある。
現在、詩の月刊誌、新聞、京都市の広報誌等に、詩・エッセイ・写真などを連載中。日本現代詩人会会員。 |
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